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悲劇の場所アウシュビッツ

ポーランド

今滞在してるクラクフの近郊には世界的に有名な場所がある。
それはあのアウシュビッツ強制収容所Auschwitzだ。
今日はそこに行ってきた。

知っての通り、ここは多くのユダヤ人及びナチスに反抗する人々、
ソ連軍の捕虜等の強制労働及び大量虐殺が行われた場所。

正直言ってブログを書くのがつらい。
こんな気持ちは初めてだ。
でも、書く。書かなきゃいけないと思う。

アウシュビッツに行った今回の話、色んなことに関して書いたので
非常に長くなってしまったことを最初に言っておきたい。

そして…めちゃくちゃ長いけど、最後まで読んでほしい。

クラクフのバスターミナルからバスに乗り約1時間45分、
アウシュビッツのバス停に到着した。
収容所の見学はこの時期(5月~10月)、
10時から15時まではガイドツアーに参加しなければならない。
それ以外の時間は個人で自由に見学できる。

ガイドツアーはポーランド語、英語、仏語、西語、独語、伊語があり、
オレたちはイタリア語のガイドツアーに参加することにした。

チケット売り場で希望する時間や言語を選択し入場券を買い、
ガイドツアーの開始を収容所の入り口で待った。
木製の建物の横を並んで歩く人々
意外と多くの見学者がいた。

まずは第一アウシュビッツ強制収容所(オシフィエンチム)へ。
入り口には有名な『ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)』の文字がある。
ARBEIT MACHT FREIと書かれた看板
でも実際は働いても自由になれず、多くの人々がここで殺された。

収容所内にある様々な施設を
ガイドのマルゲリータさんの説明を聞きながら回っていく。
いくつも並んだ白黒の写真パネルと説明する人

これは、どこからアウシュビッツへと連れてこられたのかが示されている地図。
アウシュビッツに連れてこられた人の場所を示す地図
ヨーロッパ中から連行されているのがわかる。
場所によっては1000km以上離れてるとこもある。

収容所内にはナチスのやった凶行の証拠が幾つも展示されている。
山積みになった毒ガスの原料が入っていた缶
これはチクロンBという毒薬(毒ガスの原料)が入っていた缶。
毒ガスの原料が入っていた缶のアップ
このチクロンBが、アウシュビッツだけで
(しかも1942年から1943年だけで!)20トンも使われた。

ここに連れてこられたユダヤ人のスーツケース。
ユダヤ人から没収したスーツケース
アウシュビッツに着いた時、彼らの所持品は全てナチスに奪われた。
スーツケースの他にも彼らの靴や眼鏡などが展示してあった。

展示物の中で特にショックだったのが、部屋いっぱいの彼らの頭髪。
ソ連軍がアウシュビッツに到着した時、
彼らは収容所の倉庫でナチスが置いていった頭髪の入った袋を大量に見つけた。
なんと7トンもの頭髪があったらしい。

いったい何人の髪の毛を切れば7トンの重さになるんだ?
ここでどれだけの人が殺されたんだ?

収容所内にある収容者用の住居(写真左)と
その周囲に張り巡らされた脱走防止用の有刺鉄線との壁。
収容者の住居と有刺鉄線と壁
この有刺鉄線には高圧電流が流されていた。
あまりに厳しくつらいここでの生活や労働に耐えきれず、
自ら有刺鉄線に飛び込み命を絶つ人もいたのだそうだ。

有刺鉄線と壁、そして見張り台。
見張り台と有刺鉄線と壁
監視用の見張り台が至る所にある。
そこから監視をしていたドイツ兵たちは、ここで苦しんでる人々を見て
何を感じ何を思っていたのだろうか。

収容者用の住居。
通常なら40~50人程度を収容する部屋に200人も入れられた。
簡素な三段ベッド
この3段ベッドのそれぞれの段に2人が寝ていた。
腐った藁の上で、穴の開いたボロボロの汚い毛布とともに。
夜、ドイツ兵はこれらの住居とは別の場所で寝泊まりしていた。
理由は、あまりにもひどい悪臭だったから。

銃殺刑が執行されてた場所。
煉瓦の壁の前にあるコンクリのような壁
毒ガスで殺された人も多いが銃殺された人の数も計り知れない。

ガス室。
煙突のあるコンクリ壁のような建物
ここでシャワーを浴びろと言われ、人々は部屋の中に入れられた。

そして中では、シャワーではなく毒ガスを浴びせられた。むごい。惨すぎる。
コンクリで固められたような壁の部屋
ここの写真はさすがに撮ろうかどうか迷ったけど、
一人でも多くの人に見てもらいたいから一大決心をして撮影した。
カメラを持つ手が震えた。

毒ガスが出てくる部屋の隣には、死体を焼く為の焼却炉があった。
煉瓦造りの焼却炉
死体は焼く前に金歯や指輪などが剥ぎ取られ、頭髪も刈られた。
金歯は金の延べ棒にし、指輪などとともにドイツ本国に送られた。
頭髪もドイツなどの生地工場に送られ、布地の原料になった。
また、死体処理をさせられていたのも同じくアウシュビッツの囚人達だった。

続いて第二アウシュビッツ強制収容所(ビルケナウ)へ。
アウシュビッツの線路
鉄道の線路が収容所の内部に引かれているのがわかる。
この門の先でユダヤ人は列車から降ろされ、
働ける者(比較的健康な大人)と働けない者(子ども、老人、病人など)、
人体実験の検体に振り分けられた。
働けない者はすぐにガス室へと送られ殺された。
人体実験に関しては、とても文章にはできないようなことが日常的に行われた。

ユダヤ人はこのような窓がない貨車に約80人もの人が詰め込まれ、
ほとんど食事も与えられずにヨーロッパ各地から移送された。
アウシュビッツの貨車と見学者
移送には数日から10日以上もかかり、移送の間に亡くなった人も当然いた。

収容所の広大な敷地。
囚人達の住居(といっても、とても人が暮らせる場所ではない)が連なる。
あまりにも広すぎて端がよく見えない。
一体どれだけの人が収容されてたのだろう。
広大なアウシュビッツ収容所の建物
冬はマイナス20度を下回るこの土地で、
暖房もなく隙間風が吹くような部屋で寝起きし、
ろくな食事や衣類も与えられずに、10時間以上の労働が永遠に続く。
その苦しさは想像を絶するものだったろう。

そしてこの苦痛が終わるのは…そう、死ぬ時。

アウシュビッツにおいて、無事に解放された人の数はたったの約7500人。
ここで亡くなったのは150万人と言われているが、実際はわからない。
当時の記録がほとんどないからだ。

ドイツ軍は1944年の末から翌年の1月にかけ、ソ連軍の侵攻に備えて
収容所内のいくつかの施設(ガス室など)を破壊し重要書類などを焼却した。
破壊された建物跡
↑これはドイツ軍に破壊された建物。
彼らはここで行われた悪行の証拠隠滅をはかったわけだ。

そしてその時ドイツ軍は、アウシュビッツの囚人達を
さらに利用するため、ドイツにある他の収容所に移送させようとした。
利用できない(働けない)と判断された人々は、ことごとく処刑された。

この時アウシュビッツから移動させされたユダヤ人の中に
『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクもいた。
彼女は移送先の強制収容所で亡くなった。

1945年1月27日、ドイツ軍が囚人達を皆殺しにする前に
ソ連軍がアウシュビッツに到着したため、約7500人は生き残った。
アンネ・フランクの父親は生存者の一人。
だがフランク一家の中で生き残ることができたのは、彼だけだ。

ガイドのマルゲリータさんが
「ここで起こったことは戦争じゃない。殺人だ。」って言ってた。
同感だ。ここで起こったことは、一方的な、ただの人殺しだ。

さっきも書いたけど、
ドイツ兵はここの囚人達を見て何を感じ何を思ったのだろうか。

人を殺して、人が殺されるのを見て、
何も感じなかったのか?
ただ命令に従っただけなのか?
何故そんなことが出来たのか?

彼らの気持ちを想像できないし、彼らの行動は全く理解できないが、
ここでとんでもない悲劇が起こったことだけは事実だ。

ガイドツアーの終わりに、マルゲリータさんにいろいろ聞いてみた。
まずは、ここにいたドイツ兵たちのことについて質問した。
彼らは戦後どうなったのか?

アウシュビッツの所長だったヘスという男は戦後
別人になりすましていたが、1946年に逮捕され裁判にかけられ、
その後死刑になったことは有名だからオレも知ってた。
しかし6000人近くいたという、他のドイツ兵はどうなったのか。

マルゲリータさんによると、
ドイツ兵の多くはユダヤ人から取り上げた金品を使い
自分の新たな身分証明書やパスポート(もちろん偽造)を手に入れ、
整形をして顔を変え、名前や経歴を変え、
南米(特にアルゼンチン)などに逃げたのだそうだ。

確かにアルゼンチンに行った時、ドイツ人移民が多い村っていうのがあり、
その村に訪れたことがあった。
もちろんそこにいたドイツ人が全員アウシュビッツの関係者って
わけじゃないだろうけど、複雑な気持ちになった。

そして、元所長のヘスのように捕まったドイツ兵もいたが、
最後まで逃げ切った者も大勢いるらしい。
その話を聞いて、悔しさと情けない気持ちがこみ上げてきた。

戦時中、上官の命令は絶対だったろうし、
そうせざるを得なかった状況もあっただろう。
だけど戦後に、逃亡先でのうのうと暮らしていた人間が
沢山いたかと思うと、同じ人間として悲しくなった。
彼らは日々何を考え生きていたのだろうか。

次に質問したのは、ポーランドの学校等ではどのように
アウシュビッツのことが伝えられてきたのか?ということだった。

答えは「今は学校で教えているけど、以前は全く教えなかった。」だった。
そういう回答を想像してはいたものの、その通り過ぎて寒気がした。

ポーランドは第二次世界大戦後、
ソ連の指導のもと共産主義国家として歴史を歩んできた。

確かにアウシュビッツでは多くのポーランド人も殺された。
でも共産主義の国ポーランド(そしてその背後にいるソ連)としては
アウシュビッツのこと自体は秘密にしておきたかったんだろう。
ポーランドもソ連も、反対派を処分するってことで言えば
ナチスドイツと大して変わんないことをやってたからね。

マルゲリータさんは家族から
アウシュビッツの事実を聞いていたから知っていた。
しかし、公にそのことを話すことは出来なかったのだそうだ。

アウシュビッツのことを知ってる人は
きっとそれなりにいたんだろうと思われるけど、
それを口にしたら後が怖いから皆何も言えなかったんじゃなかろうか。

情報の統制や教育を使った国民のコントロールがまかり通る状態って恐ろしい。
昔の日本も同じことやってたけど、
現在でも同じようなことが世界のいろんな場所であるんじゃないだろうか。

最後に、ガイドツアーの中でマルゲリータさんが言ってたことで
特に印象に残ったことを紹介したい。

本や写真、テレビやインターネットで、いろんなことを知ることができる。
アウシュビッツのことも本や写真等で見たり読んだりして知ることは可能だ。
けれど、現地に来て実際に見て、歴史に触れることとは違う。
自分の体で直接歴史に触れることが重要なんだ。
触れなければ感じることができないことがあるから…

本当にその通りだと思う。
アウシュビッツに関して知ってることはたくさんあった。
けれどそれは、あくまで本や写真の上でのこと。

例えば、ここにユダヤ人の髪の毛が残されてたこともオレは知っていた。
でも、その現物を自分の目で見た時、言葉にできない感覚があった。

涙がでた。

その時の気持ちはうまく言葉にできないけれど、
言葉で表現できることは今回書けるだけ書いてみた。
伝えなくちゃいけないと思ったから。

ここまで読んでくれたみんなへ。

アウシュビッツを忘れないでほしい。
そして、大変だろうけど誰かに伝えてほしい。

こんなに悲しいことがたったの数十年前に起こったことを。

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